菩提寺
功山寺は下関市長府にある曹洞宗の寺で、長府毛利家の菩提寺です。ここは周防・長門を支配した戦国大名大内家の最後の当主:大内義長が、毛利元就軍に囲まれて自刀した地でもあります。義長の死により西国の名門大内氏は滅亡し、この地は毛利氏の支配下となりました。晋作は九州から下関に戻りましたが、決起の同調者を得られず悶々としていました。ついには業を煮やし死を決意して(晋作は白石正一郎の弟大庭伝七に遺書を書き送り、墓銘に「西海一狂生東行墓」と彫り、その横に「故奇兵隊開闢(かいびゃく)総督高杉晋作」と刻んでくれと依頼しています)、最後の説得のため長府へ向かいます。この頃長府には西下した五卿が功山寺に投宿しており、五卿警護のためと称して奇兵隊はじめ諸隊が屯集していたのです。晋作は奇兵隊らに対し必死の説得をしましたが、長人怜悧と他藩の者から嘲笑されていた通り、山県狂介以下奇兵隊の壮士すべてが晋作に対して冷淡でした。唯一晋作と生死をともにする覚悟をもっていた伊藤俊輔だけが力士隊30名を率い決起を決意し、その後他藩脱藩浪士の集まりである遊撃隊50名がこれに加わります。
大内義長辞世の句
誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ
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